地域の根を掘りはじめる

自分の人生は失敗だったかという判断基準のひとつは、一般に言われるのは友人知人以外の一般の人から知られていない、つまり有名人ではないからというものだ。言い換えれば仕事で何かを達成することがなかった、ということだ。有り体に言えば、そういう目標とか欲望を持ち得なかったことが原因に思える。私はそもそも競争が嫌だった。他人と比較される環境が嫌で逃れようとばかりしていた人生だった。ただ一つ残された欲望が自分自身であることだ。今日たまたま手に取った本に、それは英語を身につけた人のエッセイで、過去のニューヨーク生活体験での英語との出会いを述べていた。その中に自分が、Thank you for being yourself. と言われたとあった。ニューヨーカーは親しくなるとそういう挨拶をするそうなのだ。自分自身でいることが相手に感謝されることなのだ。そういう習慣があるって日本じゃ考えられないことじゃないだろうか。これって無限の安心を相手に与えるよね。ぼくは自分自身でいることには自信がある。この自信は既に人生に成功していることを示すのではあるまいか?

ところで自分自身でいることも成功と失敗というか、成功までいかない普通レベルがあるのではないか。先ほどの本の著者は本を出した時点で成功者といえると思う。そういう体験談をエッセイにしてみませんかと出版社から依頼されたからだ。ぼくは誰からも本の執筆を依頼されたことはない。だから冒頭に戻るが、ぼくの人生は失敗だったということになる。しかし、今のところはと注釈をつけておこう。

さて、先日ぼくが副会長を務める、石川県読書会連絡協議会の総会が開かれて、その時の記念講演があった。泉鏡花記念館の館長の講演で、泉鏡花の「山海評判記」を中心に、泉鏡花と能登の関係についてだった。ぼくは講演記録を仰せつかったので傾聴せざるを得なかった。実いえばこの年になるまで泉鏡花を読んだことがなかった。金沢の三文豪の一人なのにずっと敬遠してきたのだった。泉鏡花じゃなくて徳田秋声派だと勝手な決めつけを自分に許していた。だから講演はきつかった。馴染みがないのでさっぱり頭に入ってこなかった。ほとんど根を上げていたし、講演が終わるとダメだぁと内心叫んでいた。家に帰ると疲れて頭がぼうっとなって眠ってしまった。

2時間ほど眠ると頭がスッキリし、対応を考え出した。「山海評判記」をとにかく読んでみようと決めた。そうすると、自分がの本の古典を読もうと源氏物語を読み始めた頃に戻って、あの頃のスタンスを思い返してみようと思った。自分の育った文芸の過去を辿ってみたい興味が湧いてきたのだった。古文という文芸遺産と地元という地域の場所を掘り探る旅に興味が湧き始めた。

定年退職者のそれから

良くも悪くも38年間サラリーマン生活を続け、定年退職して早10年。自分の過去から積み上げられたキャリアの意味を見つめ、生かされた場所での人間的な着実な一歩を文章にしてみたいと思う。失敗から学ぶ。縁あって対面することになる隣人を大切にする。応答力を磨く。歴史に学びながら共に生きる。

0コメント

  • 1000 / 1000